過去の法話
開炉
(令和4年 10月の法話)
旧暦十月一日、本格的な冬を迎えます。
農耕中心の秦では、
秋の農作業が一段落したこの日が
新年のはじまりとされました。
宮中はじめ、禅寺でも暖炉に火を入れ、
炉開きの説法もありました。
拍子木を打ち鳴らし「火の用心」と
声をかけ町内をめぐる場面、
現代ではめったにお目にかかりません。
でも近代に至るまで長い期間、
火事は「地震・雷・火事・親父」と言われるように
災害の代表格でした。
一度出火すれば延焼は免れ得ません。
火を使うことが人間の文化発展の基本にあると聞きますが、
それはまた原子力発電所の事故に象徴されるように、
人間社会を滅亡に導きかねない
「両刃の剣」のような存在です。
仏典では「煩悩(ぼんのう・欲望)」は、
しばしば燃えさかる火にたとえられます。
煩悩がなくなり心の安らぎを得ることを涅槃といいますが、
それは煩悩の火が消えたことを意味します。
煩悩は人間社会を発展させると同時に
環境破壊も含めて様々な問題を惹起しています。
理性と欲望、どこで折り合いをつけるか。
いまが正念場といえましょう。