過去の法話
著衣喫飯
(令和4年 6月の法話)
「禅の修行」というと、肉体を極限までいじめ抜き、
その結果、精神的な安らぎ、特別な境地を
獲得するというイメージがあるかもしれれません。
確かに朝の暗いうちに起床し、坐禅をし、お粥を食べ、
日常的に作務があるとなると
「ふだんの生活」とはほど遠く、
よほどの覚悟がないとつらい日々となってしまいます。
修行の中心となる「坐禅」も足は痛いし、
居眠りしていると警策と呼ばれる
樫の棒で打たれる、といった理解が先行します。
禅でいう修行は、何か特別な学問・技芸を修得する以上に
「平常心是道」「日々是好日」「逢茶喫茶、逢飯喫茶」
「威儀即仏法」などの言葉が示すように、
日常の生活そのものを丁寧に生きることを基本に置きます。
もちろん「やることなすこと、悪事を働いても、すべてが仏法だ」と
短絡的に受け止めてしまうと、修行の本当の意味を
ないがしろにしてしまうことは、いうまでもありません。